はじめに
その四の続編です。
これで最終回となります。
今回は、伊勢への転進~その死までを述べたいと思います。
謎の伊勢転進
顕家らは青野ヶ原では勝利しましたが、その後、近江国と美濃国の境、黒血川に背水の陣を敷く北朝軍と戦うことなく、伊勢方面に転進しました。建武5年(1338)1月末のことです。
少なくとも転進の理由は、この6ヶ月の間の激しい戦闘で軍も数を減らしており、脱落者も出ていて、とても北朝軍と戦う余力がなかった、ということでしょう。
しかし、なぜ伊勢なのか、というのは諸説あります。
一つ目の説は、太平記では、北へ向かい、越前の新田義貞と合流するべきであったが、功績を奪われるのを嫌って、伊勢に向かったとしています。
二つ目の説は、伊勢は北畠家が国司を努め、父の親房が入国し勢力を築くなどしており、北畠家の地盤がすでにできている場所であったからというものです。
個人的には、後者のほうが自然なのではないかとは思っています。
顕家らは、伊勢に入った後、2月中旬に櫛田川付近(現三重県松阪市東方)で合戦を行い、その後、大和国入りしました。そして、2月21日、奈良に入りました。苦戦を強いられたものの、宇都宮(公綱?)と地侍の別働隊の活躍により、守備にあたっていた北朝軍を敗退させ、奈良を占領します。
北朝軍と一進一退
これを重く見た北朝方は、2月28日、執事高師直を出陣させます。
そして、奈良般若坂(現奈良県奈良市)で両軍は戦闘になります。ここでは顕家は敗北したようで、
一旦、吉野に引き上げていきました。ここで、陸奥から一緒に連れてきていた義良親王を朝廷へ返しました。
そして、敗残兵を再び結集して、河内国へ攻め込み、3月8日にはなんと摂津天王寺まで進出して、幕府軍に勝利しています。
これは北朝方にも衝撃を与え、足利直義が、翌日、軍を率いて東寺に陣を敷いたほどでした。
そして、顕家の弟、北畠顕信が石清水八幡宮を占拠するなど、京にあと一歩というところに迫りました。
3月15日、摂津で再び合戦となり、上杉憲藤らを戦死させましたが、翌16日、天王寺で師直軍に敗北し、再び撤退を余儀なくされました。
和泉国堺浦で戦死
この後、さすがに顕家も軍の再建に時間がかかったのか、当分、史料上に姿を見せません。
5月15日付「北畠顕家上奏文」まで待たなくてはいけません。
これは、後醍醐天皇の政策を七ヵ条で批判したものです。
第一条では中央集権を批判し、広域地方統治機構を設置するよう提言しています。
第二条では、減税および倹約を提言しています。
第五条では、行幸や宴会を控えることを提言しています。
第六条では、法令を厳重に執行するように提言しています。
残りの部分は、先例を無視し、武士や側近に不当に高い地位を与えたことを批判しています。
(前欠なので、これが内容の全体像であるかは分かりません)
この文書が提出された直後の5月22日、和泉国堺浦(現大阪府堺市)で、高師直軍と決戦が行われました。
海上で戦いが行われるなど、大規模なものでした。
奮戦むなしく、師直軍に追い詰められ、南部師行らずっと陸奥から従ってきた家臣らと、戦死したのでした。
享年21歳の若さでした。
参考文献
大島延次郎『中世武士選書22 北畠顕家―奥州を席捲した南朝の貴族将軍』戎光祥出版、
2014年、元本初出1967年
新井孝重「黒血川以後の北畠顕家」『日本中世合戦史の研究』東京堂出版、2015年、初出2009年
白根靖大編『東北の中世史三 室町幕府と東北の国人』吉川弘文館、2015年
亀田俊和「北畠顕家」亀田俊和・生駒孝臣編『南北朝武将列伝 南朝編』戎光祥出版、
2021年
七海雅人「北畠顕家の軌跡」『東北学院大学論集 歴史と文化』65・66合併、2022年


