中世ネタ

宇都宮公綱:逃げ若登場 元弘の乱の裏ヒーロー

宇都宮公綱は『逃げ上手の若君』でコミカルに登場するが、元弘の乱で活躍した勇猛な名将。生涯を解説。
大河

田沼意知の死因とは?刺殺事件の真相徹底解説【大河ドラマ「べらぼう」】

田沼意知刺殺事件の概要、理由として考えられる「私怨」「公憤」「乱心」について解説する。
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平賀源内の人生6(完):死因に迫る【大河ドラマ「べらぼう」】

平賀源内の人生のうち、晩年の殺人を解説。墓に行ってみた体験記も。
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平賀源内の人生5【大河ドラマ「べらぼう」】

平賀源内の人生のうち、鉄鉱山での活動からエレキテルの復元までを解説
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平賀源内の人生4【大河ドラマ「べらぼう」】

明和2年(1765)、中島利兵衛らと協力し金を掘る計画を立てたが、産出量が少なく明和6年(1769)以降に中止。源内は大きな金銭的損失を負った。・金山事業の失敗後、資金稼ぎのために序文執筆や艶本の出版、歯磨き粉「嗽石香」の口上作成など多方面で活躍した。また、明和7年(1770)に「神霊矢口渡」を発表し、現在も歌舞伎で演じられる名作を生み出した。・オランダの洋書に魅了され、「紅毛本草」などの翻訳を計画し長崎へ向かったが、資金難や環境の影響で実現しなかった。他に、滞在中に天草での製陶や羊毛織物などの事業を考案したが、成功には至らず安永元年(1772)に江戸へ戻った。
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日光社参とは何か【大河「べらぼう」】

日光社参は徳川将軍が日光東照宮などを参拝する行事で、全17回実施され、主に4月17日に行われた。約15万人が動員され、費用は22万両(現代の165億円)ほどだった。日光社参は将軍権威の誇示や政治的課題解決の手段となり、庶民も奉仕は「国恩」への御礼として受け止めた。家治は社参を積極的に望み、明和6年(1769)に計画し、安永5年(1776)4月13日から実施した。
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平賀源内の人生3【大河ドラマ「べらぼう」】

平賀源内は宝暦13年(1763)に薬品会の物品の解説本『物類品隲』を刊行しました。この著作のほか、長編小説『根南志具佐』や滑稽本『風流志道軒伝』も執筆し、「作者の巨擘」と評されました。また、翌年には秩父でアスベストを発見し、燃えない布「火浣布」を製作。清の商人の注目を集め羽織の注文が来ましたが、製作は困難で、源内の熱は冷めてしまいました。
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平賀源内の人生2【大河ドラマ「べらぼう」】

源内は、宝暦7年(1757)、藍水に薬品会を提案します。第5回まで行われ、この開催によって名声が高まりました。そのおかげか、再び故郷で高松藩に召し抱えられます。しかし、仕事に忙殺され、本草学を研究することができず、宝暦11年(1761)9月ついに職を辞します。その時に、「奉公構」を命じられ、他藩・幕府へ仕官できなくなります。ほぼ同じ頃、源内は「芒消」(硝酸ナトリウム)製造に関わり、これを成功させました。
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平賀源内の人生1【大河ドラマ「べらぼう」】

源内は、高松藩の蔵番の子として生まれ、幼い頃から本草学・文芸などの勉学に励みました。寛延2年(1749)、父が死去し、跡を継ぎましたが、長崎遊学を経て、蔵番退役願いを出し、浪人となりました。そして、大坂での修行を経て、宝暦6年、江戸に出府し、田村藍水門下として本草学者の道を本格的に歩み始めたのです。
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北畠顕家の生涯 その五【逃げ上手の若君】

伊勢への転進~その死までをまとめています。