はじめに
「逃げ上手の若君」に出てくる関東庇番はご存知ですか。
みんなキャラが立っていて、面白いですね。
史実の関東庇番はどのような組織だったのか、簡単に解説します。
いつできたのか
元弘3年(1333)5月、鎌倉幕府が滅亡しました。その翌6月、建武政権が誕生し、雑訴決断所や記録所の設置、新しい法の発布などが行われました。
そして、地方行政機関が整備されます。その一環で、関東の地方行政機関として元弘3年(1333)12月に誕生したのが、鎌倉将軍府です。
鎌倉将軍府は、後醍醐天皇の皇子、成良親王を形式的なトップとし、足利尊氏の弟、足利直義が執権のような実質的な指導者とした組織です。
この鎌倉将軍府の成立背景には、鎌倉に武家政権があるべきという武士たちの暗黙の了解や、鎌倉に留まっていた旧鎌倉幕府の官僚たちの幕府再興を願うムーブメント、当時、鎌倉にいた子千寿王を核とした武士たちの集団の安定を計る足利尊氏の思惑などがあると考えられています。
そして、この鎌倉将軍府の一組織として設けられたのが関東廂番なのです。(なお、歴史学上ではこちらの表記が一般的なので、こちらで統一します。)
メンバーについて
廂番のメンバーについては、『建武記』と呼ばれる編年体の古記録にリストがあります。
これを現代語訳に訳し、引用します。
「関東廂番
定める (以下のものは)廂において結番する事〈順不同〉
一番 刑部大輔義季 丹後次郎時景
左京亮 長井大膳大夫広秀
武田孫五郎時風 仁木四郎義長
河越次郎高重
二番 兵部大輔経家 蔵人憲顕
出羽権守信重 若狭判官時明
丹後三郎左衛門盛高 三河四郎左衛門尉行冬
三番 宮内大輔貞家 長井甲斐前司泰広
那波左近大夫将監政家 讃岐権守長義
山城左近衛大夫高貞 前隼人正致顕
相馬小次郎高胤
四番 右馬権助頼行 小野寺遠江権守道親
宇佐美三河前司祐清 遠江七郎左衛門尉時長
豊前々司清忠 因幡三郎左衛門高憲
天野三河守貞村
五番 丹波左近将監範家 尾張守長藤
伊藤重左衛門祐持 後藤壱岐五郎左衛門尉
美作次郎左衛門尉高衝 丹後四郎政衝
六番 中務大輔満儀 蔵人伊豆守重能
下野判官高元 高太郎左衛門尉師顕
加藤左衛門尉 下総四郎高家
右の結番の順番を守り、怠ることなく勤務せよということを命令により定める。
元弘☓(不明)年―」
メンバーを表にするとこうなります。
番 | 名前 | 比定 | 出身 |
1 | 刑部大輔義季 | 渋川義季 | 足利一門 |
丹後次郎時景 | 二階堂?時景 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
左京亮 | 不明 | ||
長井大膳大夫広秀 | 長井広秀 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
武田孫五郎時風 | 武田時風 | 甲斐国御家人か | |
仁木四郎義長 | 仁木義長 | 足利一門 | |
河越次郎高重 | 河越高重 | 武蔵国御家人 | |
2 | 兵部大輔経家 | 岩松経家 | 足利一門 |
蔵人憲顕 | 上杉憲顕 | 足利被官 | |
出羽権守信重 | 高坂信重(近藤信重説も?) | ||
若狭判官時明 | 三浦時明 | 相模国御家人 | |
丹後三郎左衛門盛高 | 二階堂盛高 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
三河四郎左衛門尉行冬 | 二階堂行冬 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
3 | 宮内大輔貞家 | 吉良貞家 | 足利一門 |
長井甲斐前司泰広 | 長井泰広 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
那波左近大夫将監政家 | 那波政家 | 元北条被官 | |
讃岐権守長義 | 小笠原長義 | 阿波守護家 | |
山城左近衛大夫高貞 | 二階堂高貞 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
前隼人正致顕 | 摂津致顕 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
相馬小次郎高胤 | 相馬高胤 | 下総国御家人 | |
4 | 右馬権助頼行 | 一色頼行 | 足利一門 |
小野寺遠江権守道親 | 小野寺道親 | 足利被官か | |
宇佐美三河前司祐清 | 宇佐美祐清 | 伊豆国御家人 | |
遠江七郎左衛門尉時長 | 不明 | ||
豊前々司清忠 | 佐々木清忠 | 旧鎌倉幕府官僚一族 | |
因幡三郎左衛門高憲 | 二階堂高憲 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
天野三河守貞村 | 天野貞村 | 伊豆国御家人 | |
5 | 丹波左近将監範家 | 石塔範家 | 足利一門 |
尾張守長藤 | 二階堂長藤 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
伊東重左衛門祐持 | 伊東祐持 | 伊豆国御家人 | |
後藤壱岐五郎左衛門尉 | 実名不明 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
美作次郎左衛門尉高衝 | 二階堂高衝 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
丹後四郎政衝 | 二階堂政衝 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
6 | 中務大輔満儀 | 吉良満義 | 足利一門 |
蔵人伊豆守重能 | 上杉重能 | 足利被官 | |
下野判官高元 | 二階堂高元 | 旧鎌倉幕府官僚 | |
高太郎左衛門尉師顕 | 高師秋 | 足利被官 | |
加藤左衛門尉 | 不明 | ||
下総四郎高家 | 不明 |
どんな組織だったのか
実はあまり詳しいことはわかっていません。
なぜならば、関東廂番について直接的に詳しく書かれた史料は、上記で触れた『建武記』のリストしかないからです。
メンバーの行動やメンバーの出した公文書で間接的に実態を把握するしかないですが、そちらも少なく(そもそも廂番として出したものかということを見分けるのも難しい)推測するしかない部分が多く、研究者によって、評価がまちまちです。
現状、説としてはおおまかにこの3つの立場に別れます。
①廂番とは鎌倉時代からある御所で将軍を警護する人たちのことを言うが、この関東廂番は裁判の審理する機能も持っていた。
②裁判を審理する機能に加えて、関東の軍事を担う組織であった。
③文字通りの廂番であり、軍事組織ではなかった。
個人的には①の見解が良いかと思っています。
中先代の乱との関わり
メンバーのうち、渋川義季、岩松経家は、建武元年7月に行われた北条時行との合戦で敗れ、自害しています。逆に、三浦時明、那波政家、天野貞村は、時行側についています。
その後、建武政権が崩壊したことにより、関東廂番も自然消滅する形となったのです。
参考文献
福田豊彦「室町幕府の御家人と御家人制」『室町幕府と国人一揆』吉川弘文館1995年 初出1981年
湯山学「建武新政期の鎌倉御所「関東廂番定文」に関する考察」『湯山学中世史論集 4 (鎌倉府の研究)』岩田書院 2011年 初出1986年
阪田雄一「中先代の乱と鎌倉将軍府」佐藤博信編『関東足利氏と東国社会』岩田書院 2012年
鈴木由美『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』中央公論新社 2021年