後醍醐天皇と足利尊氏の関係とは?まとめ

後醍醐天皇 中世ネタ

はじめに

みなさん、後醍醐天皇と足利尊氏の関係はどのようなイメージをお持ちでしょうか。
一般的には、建武政権内で警戒され、いわゆる干された状態にあったと説明されます。
これは後に反旗を翻したことを前提にした結果論にすぎないのです。
簡単に言えば、別に尊氏は冷遇されていたわけではないのです。
また、はっきりいって本人は反乱を起こす意図はもとからなかったと言ってよいでしょう。
そのことについて、解説していきます。

建武政権内での足利尊氏

元弘3年(1333)6月、後醍醐天皇は京都に戻り、「建武の新政」と呼ばれる政治
を始めました。
その時、同年中には位階は従三位となり、鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守となりました。
また鎌倉北条氏の旧領30箇所を恩賞として拝領します。
権限面でも、大きな権限を持っていました。
例えば、着到状と呼ばれる、恩賞を上位者に申請する際に提出する公文書を独自に武士から受理し、サインをして、内容を後醍醐天皇に報告したりしています。また、鎮守府将軍としての全国の武士に対する軍事指揮権を持ち、その権限を行使して、翌建武元年(1334)に起きた、規矩・糸田の乱と呼ばれる九州での北条氏残党の反乱に対処したりしています。
これらを総合すると、冷遇されるどころか、天皇によって重用されていたと考えるほうが自然です。
これまでのイメージは、『梅松論』(室町幕府側寄りの立場に立って書かれた歴史書)に「又、天下一同の法をもって安堵の綸旨を下さるといへども、所帯をめさるる輩、恨をふくむ時分、公家に口ずさみあり。尊氏なしといふ詞を好みつかひける。」(現代語訳:天下一同の法で安堵の綸旨が下されたのに、所領を没収された人々が恨みをいただいていた時、公家が噂話をしていた。(建武政権には)尊氏なしという言葉をよく使っていた)と書いてあったということが影響しているのでしょう。
しかし、実際の後醍醐天皇の姿勢や尊氏の行動を他の史料で追っていくと、そんなことはなかったのです。

なぜ尊氏は反旗を翻したのか

ではなぜ尊氏は建武政権に反逆したのでしょうか?
これには少し複雑な背景があります。
順を追って説明していきます。

中先代の乱

建武2年(1335)7月に、尊氏の弟、足利直義が率いる関東の建武政権軍は、鎌倉で旧北条氏残党の北条時行らの反乱軍に敗れ、鎌倉を反乱軍に占拠されるという事件が起きます。
いわゆる、中先代の乱です。
これを受けて尊氏は翌8月に、勅許のないまま出陣し、8月19日、北条時行らを破り、鎌倉を無事奪還します。

戻らない尊氏とその背景

後醍醐天皇は、無事反乱を鎮圧した尊氏に帰京命令を出しますが、これに尊氏は従わず、ずっと居座り続けるのです。
この背景にはなにがあったのでしょうか。
キーとなる人物は、弟です。
直義は、京都に戻れば公家や新田(義貞)によって命を狙われる、と進言したのです。
実際、義貞によって上洛するところを狙い、討ち取ろうという計画が進められていたのは事実のようです。
また、鎌倉に入って3ヶ月後には武士たちは尊氏を「将軍家」と呼ぶようになります。
尊氏に古の征夷大将軍、源頼朝の姿を見出し始め、尊氏の支持者が増えていったのです。
こうして、尊氏はずるずると京に引き返せないでいました。

後醍醐天皇への反旗

建武2年(1335)11月、直義は、全国に義貞討伐の檄文をバラマキました。もはや建武政権との対決を覚悟し、準備を始めたのです。
しかし、尊氏は、これについてわざわざ後醍醐天皇に許可を願う手紙を送るなど、いまだに建武政権と対決する姿勢を見せませんでした。
後醍醐天皇はこの情勢を見て、その手紙が届く前にもはや尊氏の上洛の意思はなし、と判断し、11月中旬から下旬に、鎮守府将軍・官位の剥奪や、東北にいた北畠顕家や新田義貞に、尊氏を攻撃するように命じました。
これを受け、尊氏は深く絶望し、鎌倉の浄光明寺に引きこもってしまいました。
出家までしようとしていました。
そうこうしているうちに、新田軍が鎌倉に迫り、直義らが必死に防戦しますが三河・駿河で敗退を重ねていました。鎌倉の手前の箱根山に陣を構え、背水の陣で防戦を行う状況にまで追い詰められます。
その中でついに尊氏は官軍である新田軍と戦うことを決断します。
その時、「守殿(足利直義)命を落とされば我ありても無益なり。但違勅の心、中においてさらに思し召さず。是正に君の知る処なり。」

(現代語訳:直義が命を落とすようなことがあれば生きていても意味がない。ただし私の心の中では天皇の命に背くつもりはないのだ。このことは天皇も間違いなく知っているところだ。)と言ったと伝えられています。
『梅松論』が出典なので少し誇張は入っているかもしれませんが。
尊氏はカリスマ性を発揮し、軍を率いて攻撃に打って出て、箱根竹之下の合戦の勝利を皮切りに、連戦連勝、ついには建武3年(1336)正月、後醍醐天皇を比叡山に追い落とし、京を占領するまでに至ったのです。

参考文献

清水克行『足利尊氏と関東』吉川弘文館 2013年
細川重男「足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?」呉座勇一編『南朝研究の最前線』朝日新聞出版 2020年 初出2016年

タイトルとURLをコピーしました