平賀源内の人生6(完):死因に迫る【大河ドラマ「べらぼう」】

大河

はじめに

「べらぼう」もだいぶ進みましたね。今、安永8年(1779)ごろですから、源内先生も来週、再来週で退場してしまうのではないでしょうか?ヤスケンさんの演技が素晴らしいだけに残念です。さて、死の原因ともなった町人殺人を中心に、平賀源内の晩年を解説していきます。

源内が起こした殺人事件とは?真相を知る鍵

事件の詳細:衝動的犯行か、それとも計画的犯行か?

源内が、殺人事件を起こしたのは、安永8年(1779)11月21日のことです。
一番、これについて詳細な記録と考えられるのは、キセルを手にした著名な平賀源内の肖像を描いたことで知られる木村黙老の記した随筆『聞ままの記』です。それに基づき、事件の概要をまとめます。

工事を巡るトラブル

ある大名が、別荘や庭の工事をやろうとしていました。
それで、役人某が手配した町人某が請け負うことになりましたが、費用が高額でした。
そこで、大名は、源内にも見積もりを取ったところ、十分の二か三の費用でできる、と伝え、源内が工事をやることになりました。
しかし、もちろん役人・町人側としては面白くなく、紛争になりました。
仲介人某の仲裁により、結局町人と源内が共同で工事をやることとし、手打ちになりました。

開かれた酒宴

その和解のしるしとして、源内の家で町人らとの酒宴が執り行われることになりました。
その席で町人某は、どうしてそんなに安くできるのか、源内に問いました。
源内は、これを受けて設計書や書類を出して、一から町人に説明しました。
すると、町人某は感心して意気投合しました。そして2人は明け方まで飲み明かし、泥酔して眠ってしまいました。

口論から切りつけ

源内が目覚めたとき、見せた書類がなくなっていました。それで、盗んだのではないかと、町人某と口論になり、刀で切りつけました。
そして、某は深手を追いながら、そこから逃げ、おそらく死亡しました。
源内は、その後、書類を家の中で発見し、思い違いであったことに気づきました。
責任をとって切腹しようとしていたところ、門人が発見して大騒ぎとなり、結果的に幕府の役人がやってきて捕らえられ、殺人の罪で牢屋敷に入れられました。

こうして見ると、完全に計画性はなく、かなり衝動的な犯行だったと考えられます。

被害者との関係性:源内を殺人に駆り立てたものは何か

経緯は経緯にしても、斬りかかるまで激昂したのは何故か。
『聞ままの記』によれば、町人某が、源内にあまりにもしつこく問いただされるので、
「若又盗隠す程の者ならバ、問いたり共可云哉。よし又誠に盗むならハ何とかする」(現代語訳:もし盗んで隠すような者ならば、問われたとしても言うか。よしまた、本当に盗んだとすればどうする。)と言ってしまったらしいのです。
それを挑発と受け取り、刀で切りつけてしまった、というのが殺人の動機であると考えられます。

天才発明家の焦り:晩年の平賀源内の状況

それにしても、些細なことで、それも本業ではないことで殺人を犯すとは、これまで幾度となくトラブルを乗り越えてきた源内らしくありません。
今までの連載をお読みの方ならおわかりでしょう。
どうして、そこまで追い詰められていたのか。
安永7年(1778)頃、渡辺桃源に宛てて読んだこの句に、このころの心情が詰まっています。
「功ならす名斗(名ばかり)遂て年暮れぬ」
功績をとげることなく、自分の名前が広まってしまっている、そう嘆いているわけです。
実際、この前年ごろから、源内は詐欺師であるとの風説が世間で盛んに噂されています。

それに加え、仕事もスランプ気味でした。
安永8年(1779)に出した文芸作品といえば、脚本『荒御霊新田神徳』、随筆(狂文)『金の生木』です。
前者は合作で、かつ二番煎じ感のあるものですし、後者は凝った趣向もない、やっつけ仕事と言わざるを得ないものでした。
前回触れたように、前年にエレキテルのことも訴訟になっておりました。
このようにうまくいかないことが多すぎ、さすがの源内も精神的に病む一歩手前の状況だったのかもしれません。

獄死に至る経緯とその後の埋葬

牢獄での最期:平賀源内が迎えた結末

源内は、牢屋に入れられた後、約1ヶ月後の安永8年12月18日、破傷風でこの世を去ります。
 なお、享年については、51歳(墓碑)、52歳(平賀家位牌・故郷の過去帳)と記録によってまちまちです。
罪人の死体は通常下げ渡されませんが、例外的に妹婿の権太夫に下げ渡されたようです。

埋葬地:遺体はどこに眠るのか

源内の墓は、東京都台東区にある、旧総泉寺跡に存在します(詳しくは後述)。
ここからは昭和3年(1928)の改修の際に、礎石下から骨壺が発見されており、火葬された後、ここに葬られたのでしょう。
故郷の香川県さぬき市志度の自性院にも墓があり、そちらは分骨されたものと考えらます。

まとめ

・安永8年(1779)11月、平賀源内は工事を巡るトラブルで町人と対立。
・結局和解し、宴席が開かれた。しかし、翌朝、書類が盗まれたと誤解し、町人と口論。挑発的な発言を受け、激昂した末に切りつけた。
・書類は後に家で発見され、誤解だったと判明。切腹を試みたが門人に止められ、幕府に捕らえられる。
・投獄から約1か月後、破傷風により獄死(享年51または52)。墓は東京都台東区と故郷・志度の2か所にある。
・晩年は、創作は不調で、風評に悩み、精神的に追い詰められていたと考えられる。

おまけ:墓に実際に行ってみた

最近、暖かくなってきましたので、日比谷線南千住駅から、東京の平賀源内のお墓に行ってみました。

まずは、南改札口を出ます。

そして、歩道橋を渡ります。

泪橋の交差点を左折。

ずっとまっすぐ行きます。そして、うなぎの筑波家さんのところで右折。

1つ目の曲がり角を左に曲がるとそこに、平賀源内の墓があります。入口は鉄扉で、かんぬきがかかっています。(帰る時には閉めるよう、注意書きがありました。)

墓石が見えてきました。笠付きの墓です。

後ろには従僕福助の墓があります。秋田出身のようです。(秋田に行ったときに出会ったのでしょうか)

元々、ここには総泉寺という寺があったのですが、関東大震災で被災し、昭和3年(1928)、北豊島郡志村(現板橋区小豆沢)に移転しました。その際に墓所もいったん移転する方向で工事が進みましたが、昭和6年(1931)に旧高松藩主・松平頼壽が中心となって顕彰会を結成。元の場所に再建されることとなりました。築地本願寺、平安神宮などを手掛けた伊東忠太が新墓所を設計し、同年完成しました。
奥に、このときの修築碑があります。

なお、X(旧ツイッター)でも話題になっていましたが、近くの台東区立石浜公園にはエレキテル型の公衆便所もあります。

お散歩にはちょうどよいので、ぜひ晴れた日に行ってみてください。

参考文献・付記

城福勇『平賀源内』吉川弘文館、
2021年、初出1971年
土井康弘『本草学者 平賀源内』講談社、2008年

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