平賀源内の人生2【大河ドラマ「べらぼう」】

大河

はじめに

「べらぼう」に登場する、平賀源内(安田顕さんが演じる)の人生について、第2回をお送りします。
今回は、江戸に出てからの動き、そして奉公構となった理由に迫ります。

薬品会を開催

宝暦7年(1757)、源内は薬品会を師、藍水に提案し、江戸湯島にてそれが実現します。
薬品会とは、今で言う博覧会のようなもので、薬や各地の物産などを展示し、交換する会のことです。
第1回(宝暦7年)~第5回(宝暦12年)まで行われました。
このうち、第3回、第5回は源内が主催しています。
この会は、田村一門を始め、『解体新書』に関わった中川淳庵など、後に蘭学者や本草学者として著名になる人々が参加したものでした。また、回を重ねるごとに品数も200点代になり、大掛かりなものとなりました。
そして、源内自身も第3回にはオランダから来た植物を含む、50種もの物品を出品しています。
なお、源内は、この薬品会の3回目が終わった後、「会薬譜」という薬品会に出品された品々をまとめた記録を書いています。

再仕官と「奉公構」

このようなことをやり遂げた源内は、本草学界での名声を高めることになり、それは故郷の高松藩も察知することになりました。
そのため、宝暦9年(1759)、名目は「医学修行」として、三人扶持で再び家臣として召し抱えられます。
源内自身は、これは「仕官ではない」と捉えていたようですが、それが許されるはずもなく、
高松藩からの仕事に忙殺されることになります。

例えば、宝暦10(1760)年3月には、藩主が京都へ赴くのに同行し、帰路、相模海岸で貝を集めるという仕事を行っています。
5月、四人扶持銀10枚の俸禄となり、薬坊主格となりました。
この度々の藩からの仕事により本草学を深めることができないでいたためか、はたまた幕府へ仕官したいという野望があったためか、宝暦11年(1761)2月、「禄仕辞任届」を藩に提出します。
これは、暇を頂戴して「我儘に一出精」という漠然とした理由が書かれていたため、
最初は認められませんでした。そのため、源内は大坂の戸田旭山のもとで医学修行をする、と藩に説明したようです。
それのおかげか、ようやく9月に辞職が認められました。
自由の身にはなったものの、他藩・幕府への仕官を許可しない、「奉公構」も同時に命じられています。
これは終生、源内を苦しめることになります。

「芒消」製造

宝暦11年(1761)秋ごろ、源内のもとに、一人の人物が訪ねてきました。
それは、伊豆国の惣七という農民で、伊豆で薬種の採取をすることを勧め、そのときは自分も協力する、と申し出たのです。
源内は喜んで使用人を伊豆へ送り、調査をさせました。
すると、「芒消」が見つかり、源内のもとに送られてきました。
これは、今でいう硝酸ナトリウムでした。
今は、マッチなどに使われている物質ですが、源内の時代には、消化・利尿剤として使われていました。
源内は、大変喜び、藍水に報告しました。
その後、藍水が幕府に上申し、12月、幕府から源内へ、伊豆へ行き「芒消」を製造せよ、と命令が下りました。
源内は代官江川太郎左衛門の協力も得つつ、数日のうちに製造に成功したのでした。

まとめ

源内は、宝暦7年(1757)、藍水に薬品会を提案します。第5回まで行われ、この開催によって名声が高まりました。
そのおかげか、再び故郷で高松藩に召し抱えられます。しかし、仕事に忙殺され、本草学を研究することができず、宝暦11年(1761)9月ついに職を辞します。
その時に、「奉公構」を命じられ、他藩・幕府へ仕官できなくなります。
ほぼ同じ頃、源内は「芒消」(硝酸ナトリウム)製造に関わり、これを成功させました。

参考文献

城福勇『平賀源内』吉川弘文館、
2021年、初出1971年
土井康弘『本草学者 平賀源内』講談社、2008年

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