はじめに
大河ドラマ『豊臣兄弟!』を見ていて、
「佐久間盛重って誰?」
「ドラマでは寝返って簗田政綱に殺されていたけど、史実でもそうなの?」
と気になった方も多いのではないでしょうか。
そのような方々に向けて、わかりやすく解説していきます。
結論:佐久間盛重とはどんな武将か?
一言で説明すると佐久間盛重はどんな人物?
佐久間盛重を一言で説明するのは難しいところがありますが、あえて言えば、「古くから織田家に仕える重臣で、桶狭間の戦いで討ち死にした人物」というのが答えになります。
まず押さえておきたい佐久間盛重の基本情報
佐久間盛重は、史料が少なくはっきり生まれた年はわかりません。
また、名前についても実は不明確で、「盛重」という名前が出てくるのも、後世の家系図のみです。出した書状などもなく、確かめられないのです。
通称は大学と言い、史料上では、「佐久間大学」と呼ばれることが多いです。
盛重が歴史上に初めて登場するのは、天文20年(1551)のことです。織田信秀の葬儀の際、織田信勝の供として登場します。
しかし、この後の信長と信勝の対立の中で、盛重は信長の方に寝返ったようです。そのため、弘治2年(1556)8月起きた、信長と信勝の稲生合戦では、砦の守備をしたり、敵将を討ち取ったりと、主要な武将として活躍しています。
その後、史料上では活動が確認できず、ようやく桶狭間の合戦の際に姿を現します。詳しくは後述しますが、そこで無念の死を迎えたのです。
佐久間盛重の桶狭間 殺されたのではなく丸根砦で討ち死に
桶狭間の戦いのおさらい
佐久間盛重の死について触れる前に、桶狭間の合戦のおさらいをしておきましょう。
信長は、家督を継いで以降、尾張の統一を達成しましたが、そこに立ちはだかったのが駿河・遠江を領国とし、三河の国衆を従え、「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元でした。義元は、鳴海城主や沓掛城主を自陣営に取り込むなど、着々と尾張に侵略を始めました。信長も、自衛策として、丹下・善照寺・中島・鷲津・丸根に砦を築き、防御態勢を固めました。
そうこうしているうちに、永禄3年(1560)5月、今川義元自らが大軍を率いて尾張に攻め込みました。5月19日、丸根砦が配下の松平元康軍によって攻撃されました。
それを受けて、信長は敦盛の舞を舞った後、小勢を率いて出陣しました。慌てて部下たちも出陣し、合わせて2000の兵が信長のもとに集まりました。その後、中島砦に入った後、桶狭間山にある本陣めがけて攻撃をしかけ、何度かの突撃の後、ついに義元を討ち取りました。それにより今川軍は総崩れとなり、織田軍が勝利した、というのが桶狭間の戦いの概要です。
佐久間盛重の死に様
さて本題の佐久間盛重についてですが、「信長公記」をもとに紐解いていきましょう。
佐久間盛重は、今川軍が18日の夕に、援軍がこないうちに丸根砦を攻略しようとしていることを察知し、信長に連絡しました。その後、前述の通り翌日、攻撃があり、丸根砦は攻め落とされました。
その時、盛重がどのように戦い、どのような死を迎えたのか、というのは残念ながら「信長公記」には書いておらず、わかりません。
異説としては、「三河物語」には松平勢に攻め込まれて、砦から打って出て破れ、落ちていったとの記述もあります。しかしながら、その後、史料上に出てこないことを考えると、討ち死にしたと考えるのが自然でしょう。
まとめ
織田家の古参重臣: 通称「大学」。織田信秀の代から仕え、信長と信勝の対立では信長側に味方して活躍した。
実態は謎が多い: 確かな史料(一次史料)が少なく、本名や生年、具体的な活動記録の多くが不明。
桶狭間の戦いで戦死: 最前線の「丸根砦」を守備。徳川家康(松平元康)の軍勢と戦い、砦が落ちる際に討ち死にしたと考えられる。
ドラマと史実の違い: 大河ドラマ『豊臣兄弟!』では簗田政綱に殺害される描写があったが、それは史実では起こっていないと考えるのが妥当。
参考文献・付記
谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』 吉川弘文館、2010年
堀新・井上泰至編『信長徹底解読 ここまでわかった本当の姿』文学通信、2020年

