田沼意知の死因とは?刺殺事件の真相徹底解説【大河ドラマ「べらぼう」】

大河

はじめに

「べらぼう」、再来週あたりに起こるであろう、田沼意知の悲劇について語ります。
それは、天明4年(1784)3月に起きた刺殺事件です。
犯人は、今回(17回)、意知の屋敷を訪れていた、旗本・佐野善右衛門政言でした。
いったいどうしてこのような事件が起きたのか?真相に迫ります。

田沼意知刺殺事件の概要

佐野政言のプロフィール

佐野家は、家康の祖父・松平清康の家臣となった正安を初代として、代々徳川家に仕えてきた、古参の譜代旗本家です。高は500石。ですので、戦国時代に下野で活躍した佐野家とはもはや全くの別家です。
 政言の父は、伝右衛門政豊といい、大番士や新番士(警備や護衛の役目を務める武士)を努めました。
 息子の政言は、安永2年(1773)8月、17歳で家督を継ぎ、安永7年(1778)に新番士となりました。
ちなみに、菩提寺・徳本寺に伝わっている過去帳によれば名前は「まさつね」とどうやら読むようです。

事件の状況ーいかにして佐野政言は田沼意知を襲ったのか

天明4年(1784)3月24日、仕事を終えた田沼意知は若年寄2人と共に御用部屋を退出しました。この場には、勘定奉行、目付けなど、大勢の役人も見送りのためにおりました。
新番所前の廊下を通り、中之間の方へ行ったところで、新番所の詰め所から出てきた
佐野政言に声をかけられ、いきなり背後から斬りつけられました。傷を負った意知は、桔梗の間の方へ逃れましたが、さらに政言は追いかけて斬りつけました。
 これを知った大目付が取り押さえ、しばらく江戸城内にとどめ置かれた後、獄舎の一つである「揚屋敷」に入れられました。なお、城内で監視に当たっていた目付の証言によれば、
政言は事件を起こしたとは思えないほど冷静で、老父が呼び出されはしないか案じていた、とのことです。
 意知は、抱えられて医師の手当を受けた後、田沼意次の屋敷へと運ばれました。
そこで看病を受けましたが、2度目に斬りつけられた傷が深く、公式発表では4月2日、実際のところは3月26日に死亡しました。
4月3日、政言には切腹が申し付けられました。そして、目付山川貞幹が立ち会い、揚屋敷の庭で、切腹(なおこの時期は実際に切腹することはなく、木刀を手に取ったところで斬首されるもので、形式的なものでした)。
子孫の家に伝わったとされる辞世の句は以下の通り。
「こと人に 阿らで御国の 友とち(字余り) たたかひすつる 身はいさきよし」
現代語訳:他の人でない御国の友達よ 戦いを捨てた身は潔く清らかだ。

犯人の動機:恨みか、公憤か、乱心か?

佐野政言が田沼意知を刺殺した理由としては、3つの説があります。一つずつ解説していきます。

私怨説

佐野政言が、田沼意知に個人的に恨みを抱いており、その恨みを晴らすために襲った、という説です。
確かに、尾張藩の城附(江戸留守居役に相当。幕府の役人との接触も緊密だった)が、事件当時に関係者から集めた情報のメモ書きによれば、
・佐野亀五郎義行の依頼により系図を意知に貸し出したが、それが返されなかった。
意知邸を訪ねたが、追い返され、挙句の果てには、新番の上司を通じて、政言は短慮で無礼な人物なので、出入り禁止である、と申し渡された。
・政言の所領に佐野大明神があったが、それが田沼大明神とされ、横領された。
・役職を世話すると言って、620両も受け取っておきながら約束が守られなかった。
・将軍(家治)の鷹狩のお供をしたとき、鳥を射止めたものの、別の者が射止めたことにされた。
・こうしたものが積み重なり、つい殿中であるにもかかわらず、刃傷に及んだ。
と取り調べに答えたそうです。
伝聞なので慎重に考えなくてはいけませんが、その道のプロが事件の取り調べ関係者等から集めた情報と推測されるものですし、少なくともこのような私怨はあったと考えて良いのではないでしょうか。

公憤説

田沼意次が積極的な改革を進め、人々の反感を買っていた。それゆえ、政言は、将来その政策を継ぎ、そらなる改革を推進すると考えられる意知を殺し、その芽をつぶすことを企んだというものです。
これは、当時のオランダ商館長、ティチングがその著書の中で主張していることが根拠ですが、蘭学者との交流はあったとしても、幕府中央とそれほど近くはない立場であるし、その信憑性に疑問はあります。

乱心説

政言が突発的に乱心し、斬りつけた、というものです。これは政言への判決文にも書かれている、幕府評定所の公式見解です。しかし、前述の通り、捕まってから、極めて冷静な様子であったこと、他の人物を狙わず、確実に意知を殺すための行動をしていることを考えると、本当にそうなのか、と疑問があります。
実際、類似の事件は、乱心として処理されることが多く、文字通り受け止めるのは危険でしょう。

以上を総合すると、確実なところは不明なものの、私怨で意知を襲ったというのが、一番可能性としては高い説なのではないかと思っています。

まとめ

・天明4年(1784)3月、若年寄・田沼意知が旗本で新番士の佐野善右衛門政言に江戸城内で斬りつけられ、数日後に死亡した。政言は切腹の処分となった。
・佐野家は徳川家に仕える古参の譜代旗本で、政言は17歳で家督を継ぎ、新番士となった。
・犯行動機には「私怨」「公憤」「乱心」の3説があるが、私怨説が可能性として高いと考えられる。

参考文献・付記

白根孝胤「田沼意知刺殺事件の真相」徳川林政史研究所監修『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年
藤田覚『田沼意次 : 御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年

アイキャッチの画像は、石部琴好 作 ほか『黒白水鏡』[出版者不明]、1789年( 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8929946 )を加工した。

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