斯波家長の生涯【逃げ上手の若君】

杉本寺 中世ネタ

はじめに

逃げ上手の若君で、時行や顕家を策略で翻弄し散った斯波家長(孫二郎)。
彼のリアルな生涯について、まとめてみました。

斯波氏とは

斯波氏は、足利泰氏の長子、家氏がその祖です。
家氏は、家督こそ継がなかったものの、北条一門に准じる待遇を受け、有力御家人として活動していました。
それゆえ、斯波氏は足利の一族の中では、高い家格を持っていました。

謎の幼少期

斯波家長がいつ生まれたのか?それは定かではありませんが、江戸時代に書かれた系図(武衛系図)によれば、建武4年(1338)12月(グレゴリオ暦だと1月)、17歳のときに死去 とあります。
これが正しいとすれば、数え年なので、元応3年(1322)生まれだと思われます。
通称は、当時の手紙の中では、「志和尾張弥三郎」と見えます。
それゆえ、『逃げ若』に出てきた「孫二郎」ではなく、この「弥三郎」が史実としては正しいのかもしれません。
父は、足利方の有力武将として活躍していた斯波高経です。
母は、不明です。

陸奥と関東の抑え

歴史上にはじめて登場するのは、鎌倉幕府が崩壊して大分経ってからのことです。
斯波家長は建武2年(1335)12月以前に、建武政権と敵対することに決めた足利方の「奥州大将」として、陸奥に派遣されました。
まず、尊氏を挟み撃ちするため南下することになった北畠顕家と陸奥国府(多賀城)で戦い、そして、それを突破し、移動を開始した顕家軍を追って関東に入り、建武3年(1336)正月までには
鎌倉に入りました。
その当時、鎌倉はまだ中先代の乱のときの北条方の残党が活動しており、不安定な状況でした。また、尊氏の子、義詮が一応の大将として残されたのにもかかわらず、本隊が東上中のため、守備兵力も少なく、家長はそのまま鎌倉に腰を据え、一門の代表としてまだ幼い義詮を補佐することになりました。
ここでみなさん不思議に思うことは、家長も元服間もない武将であるのに、なぜこのような地位につけたのかということだと思います。
それは、多くの一門は、尊氏に従い、京都の付近で戦っており、家格の高い武将はあまり関東にいなかった、というのが理由となるでしょう。

「奥州関東御代官」斯波家長

4月になると、北畠顕家がまた東北に戻ろうと、鎌倉のあたりまで攻め寄せてきました。
そのため、家長率いる足利方の軍はそれらと激しい戦闘を繰り広げました。
中でも、鎌倉や、相模片瀬川で激戦となりました。
有力武将の相馬重胤が鎌倉で敗退し自害する事態にもなっています。
なんとか鎌倉の奪還は防ぎましたが、関東や東北の足利方の情勢は日替わりで、その支援に追われました。
まず、家長が去った後の南東北には、いとこの斯波兼頼、同族の中賀野義長らを派遣します。
時期は不明ですが、5月までには両者は陸奥に入ったと考えられます。
そして、常陸、下野方面には建武3年10月に自ら出陣しています。
また、上杉憲顕、桃井直常などの配下を関東各地に配置し、後醍醐方と対峙させています。
なお、家長のこのときの立場については後世、嘉慶元年(1389)の史料では「奥州関東御代官」とされており、それがこのような活動から見て最も的確なものであると考えられます。

鎌倉で死去

しかし、戦力を分散させすぎたためか、建武4年(1337)8月に再び上洛を始めた北畠顕家軍に、下野小山城を攻略されました。
そして12月に利根川付近や武蔵安保原で大規模な合戦が起きますが、家長らの軍は大敗します。
そして12月23日から鎌倉の本拠としていた杉本城付近でも合戦がおきます。
25日に城は落ちました。
その時に家長は討死したとも(『太平記』『常楽記』など)、もしくは観音堂で自害したとも(『鎌倉大日記』など)伝わっています。

参考文献・参考史料

小川信『足利一門守護発展史の研究』吉川弘文館、1980年
原田正剛「鎌倉幕府成立に関する一考察 : 斯波家長期の鎌倉府を通じて」『中央史学』26号、2003年
東京大学史料編纂所『大日本史料』第6編之28 東京大学出版会、1974年

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