北畠顕家の生涯 その一【逃げ上手の若君】

中世ネタ

はじめに

『逃げ上手の若君』でも大活躍の北畠顕家。
最近は関連本・論文も少しずつ増え、研究が進みつつありますが、それを反映したものは、
ネット上にはあまりないように思います。
ですので、それらをもとに、わかりやすく顕家の生涯を追っていきたいと思います。
何回かにわけて記事を書く予定です。

北畠家

北畠家は、村上天皇の孫、源師房に始まる村上源氏です。
鎌倉時代に、中院雅家が北畠を名乗ったのが始まりです。

誕生と幼少期

誕生

顕家が誕生したのは、文保2年(1318)のことです。
父は、北畠親房です。後醍醐天皇の側近で後に南朝の重臣として重きをなす人物です。
長子として生まれたと考えられます。

異例の出世と舞

元応3年(1321)正月、4歳で従五位下に叙任されました。元徳2年(1330)4月には権左中弁に、翌年の元弘元年(1331)には、従四位下となり、参議兼左近衛中将となるなど、朝廷内でスピード出世を遂げました。
この時点でまだ14歳でした。
父の昇進スピードよりも早く、異例のものです。

なお、顕家は舞にも通じる文化人でもあったようで、以下のようなエピソードがあります。元徳3年(1331)3月4日、西園寺公宗の家で、天皇を招き宴会がありました。
その時、顕家は余興して「陵王」という演目を舞いました。
それがあまりにも見事だったので、前関白の二条道平が褒美として衣を与えました。
これを喜んだ顕家は、左肩にこれをかけて、さらに一曲舞ってから退出したそうです(出典は『増鏡』)。

元弘の乱勃発と鎌倉幕府滅亡

後醍醐天皇は、このころ倒幕の企てを側近と練っていました。
しかし、元徳3年(1331)4月、鎌倉幕府に密告があり計画が露見し、笠置山で挙兵する事態となりました。後醍醐は挙兵に応じた武士たちとしばらく抵抗を続けますが、いかんともし難く、捕らえられ元弘2年(1332)4月隠岐に流されたのです。
この間、元弘元年(1331)9月に光厳天皇が即位していますが、顕家は朝廷内での地位を維持し、11月には従三位となっています。

その後、倒幕軍は、勢力を増し、元弘3年(1333年)5月に鎌倉幕府は滅亡しました。
そして後醍醐天皇は京都へ帰還し、自ら親政を行う建武新政が始まったのです。
しかし、残党も多く、特に、東北地方は北条の所領も多く、安定化が不可欠でした。
そこで、顕家を陸奥守とし陸奥を直接統治すること命じました。しかし、顕家自身としては全く経験のないことで、辞退しましたが、直接天皇が呼び出し、勅語・御衣・御馬を下賜し陸奥守任命を命じるに至って、これを受け入れました。
なお、義良親王が、幼少でありながら、名目上のトップとして一緒に下向することになりました。
そして、同年10月、顕家、義良親王の一行は、陸奥に向けて出発したのです。
親房も顕家を補佐するために同行することになりました。
この際、後醍醐天皇は、陸奥の有力武士の白河結城氏などに、「顕家に従うように」と命令する手紙を送っています。

陸奥国府の組織

この後、顕家らは国府が置かれていた多賀城に着き、統治のための組織をつくることになります。
義良親王―顕家の下には、役職としては、式評定衆、引付、政所執事、評定奉行、寺社奉行、安堵奉行、侍所が置かれました。
式評定衆は、最高合議機関と言える組織であり、特に重要な役職です。
メンバーは京から同行した貴族、結城宗広などの在地武士、旧幕府官僚で構成されていました。

引付は鎌倉幕府の引付と同様の訴訟を処理するための役職であったと考えられます。
その他の役職についても、鎌倉幕府に存在する役職であり、それを受け継いだと考えられます。
このように、親王将軍を戴き、鎌倉幕府と似た組織を持つ国府は、あたかも鎌倉幕府を模倣したミニ幕府とも呼べるものであったのです。

参考文献

遠藤巌「建武政権下の陸奥国府に関する一考察」(豊田武教授還暦記念会編『日本古代・中世史の地方的展開』吉川弘文館、 1973年
森茂暁「南朝局地勢力の一形態 北畠氏の奥州経営をめぐって」『日本歴史』327号 1975年
遠藤巌「南北朝内乱の中で」『中世奥羽の世界』東京大学出版会、1978年
白根靖大編『東北の中世史三 室町幕府と東北の国人』吉川弘文館、 2015年
亀田俊和「北畠顕家」亀田俊和・生駒孝臣編『南北朝武将列伝 南朝編』戎光祥出版、
2021年
七海雅人「北畠顕家の軌跡」『東北学院大学論集 歴史と文化』65・66合併、2022年

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