はじめに
今日の回では、平賀源内先生も大活躍でしたね!
さて、平賀源内の人生を追う連載、第4回をお送りします。
秩父中津川金山事業への挑戦と挫折
明和2年(1765)4月、中島利兵衛の一族が、再び武蔵国中津川(現在の埼玉県秩父市中津川地区)を調査したところ、金・銀・銅などが発見されました。
これにより、源内は利兵衛らと相談して、金を掘る計画を立てたのでした。
これは本人の弁によれば、本を出版するためでした。具体的に言うと、本草学関係の図譜類などを出版するためでした。
明和3年(1766)8月、源内の案内で幕吏正木源八が訪れ、諸所を周り、立て札を建てて帰り
金山事業が始まったのでした。
しかし、掘削しても金の産出量が少なかったため、明和6年(1769)以降、掘削作業は中止されました。
これにより、源内は多額の金銭的痛手を被りました。
金山事業が順調にいかなかったこともあって、源内は文学方面で資金稼ぎに邁進することになります。
資金難を乗り越えるための文学活動
明和2年(1765)~明和5年(1768)にかけて、序文を書きまくります。
平秩東作『水の行方』、太田南畝『寝惚先生文集』初編、銅脈先生『太平楽府』などです。
また、ちょっとお下劣な艶本も出しまくります。
明和4年に出版した『長枕褥合戦』などです。
さらには、今で言うコピーライターのような仕事もやります。
それが、べらぼうにも出てきた歯磨き粉「嗽石香」の口上作りです。
「トウザイ、トウザイ」という出だしが印象的なこの口上は評判だったようです。
そして、浄瑠璃の台本も書きます。
一番著名なのが明和7年(1770)1月初演の『神霊矢口渡』でしょう。
これは太平記巻第三十三の「新田左兵衛佐義興自害の事」を題材に、新田義興の活躍とその悲劇を扱った歴史活劇です。
今でも、浄瑠璃はもちろん、歌舞伎でも演じられている演目です。
蘭学に魅了され、翻訳のため長崎へ〜「紅毛本草」を読みたい〜
源内は、このかたわら、せっせとオランダの洋書を収集していたのです。
源内の本人が手紙に書いている用語を使えば「紅毛本草」「紅毛花譜」「紅毛虫譜」「紅毛魚譜」「世界図」などです。
源内は、オランダの科学に魅了され、そのうちに、これらの翻訳こそが、国益になると思い立ちました。それで、長崎に行ってオランダ通詞に翻訳を頼もうとしました。
また長崎に行けば「何ぞ思い付きも出来申すべく」(なにか思い付きもできるだろう)ということで、田沼意次の協力を得て、幕府から「阿蘭陀書御用」という役目をもらって、再び長崎へと旅立ちました。
現地についた源内の足取りは詳しくはわかっていませんが、断片的に残された手紙や記録からは、おそらく、長崎にいた通詞の吉雄耕牛などを頼り、所蔵していた「紅毛本草」「紅毛花譜」を翻訳しようと計画していたことが伺えます。
しかし、これらはあまり芳しくない結果を終えたと見え、邦訳版が出版されることはありませんでした。
それには、江戸で入質した夏物の衣類を送らせるくらい、資金難の中の長崎行きだったことも影響しているかと思います。
また、前言の通り、アイデアは無数に浮かんだようで、天草での製陶や、羊毛を使った織物など、新事業を次々と考え出しますが、いずれも結局、芽は出ませんでした。
こうして、源内は大坂を経由して、安永元年(1772)、江戸に帰ったのでした。
ただし、鉱山に関する知識は得たと見え、「山師」としての活動にすさまじい執着を見せ、またしても手広く活動することになります。
まとめ
・明和2年(1765)、中島利兵衛らと協力し金を掘る計画を立てたが、産出量が少なく明和6年(1769)以降に中止。源内は大きな金銭的損失を負った。
・金山事業の失敗後、資金稼ぎのために序文執筆や艶本の出版、歯磨き粉「嗽石香」の口上作成など多方面で活躍した。
また、明和7年(1770)に「神霊矢口渡」を発表し、現在も歌舞伎で演じられる名作を生み出した。
・オランダの洋書に魅了され、「紅毛本草」などの翻訳を計画し長崎へ向かったが、資金難や環境の影響で実現しなかった。他に、滞在中に天草での製陶や羊毛織物などの事業を考案したが、成功には至らず安永元年(1772)に江戸へ戻った。
参考文献・付記
城福勇『平賀源内』吉川弘文館、
2021年、初出1971年
土井康弘『本草学者 平賀源内』講談社、2008年


