はじめに
久しぶりに、『逃げ上手の若君』関連の記事です。
『逃げ上手の若君』に出てくるボケボケのコミカルおじいちゃん、宇都宮公綱。
実は元弘の乱で活躍し、楠木正成に「坂東一の弓矢取り」と称された勇猛な名将だったのです!161話でその片鱗を見せていましたね(笑)
彼の魅力を実際の史料や、確かな参考文献をもとに紹介いたします。
宇都宮公綱の生涯:動乱の時代を駆け抜けた名将の軌跡
宇都宮公綱の家系と幼少期
公綱は、乾元元年(1302)に生まれました。宇都宮氏は、下野の伝統的な豪族で、鎌倉幕府の成立にも大きな影響を与えた一族です。そのため、幕府内で重要な役職に就くことが多く、有力な御家人でした。実際に、公綱の父である宇都宮貞綱は、幕府の引付衆を務めていました。母は、北条長時の娘と伝えられています。
初名「高綱」の由来
公綱は元服し、最初は「高綱」と名乗りました。これは、執権北条高時から「高」の字をもらって名乗ったと考えられます。 公綱も引付衆となり、順調に有力な御家人としての道を歩みました。
元弘の乱での大活躍
かし、時代がそれを許してくれませんでした。元弘元年8月、後醍醐天皇が挙兵し、それに呼応して翌月楠木正成が河内で挙兵したのです。
いわゆる元弘の乱が始まったのでした。
これらはすぐ鎮圧され、後醍醐は隠岐に流されましたが、楠木正成が元弘2年(1332)4月、住吉・天王寺の辺りで再び挙兵しました。
これには幕府軍は苦戦を強いられ、上洛中だった公綱に鎮圧が任されることになり、天王寺へ向かいました。これを受け、正成は戦わずして撤退するという判断をしました。
ここは、太平記を引用しながら詳しく別項で解説します。
その後、楠木正成は千早城や上・下赤坂城を拠点にゲリラ戦を行い、幕府は苦戦を強いられます。
公綱も楠木正成の籠もる千早城の攻略に参加しましたが、突破できず、膠着状態に陥りました。
その間、各地で反幕府の動きが高まり、後醍醐も隠岐から伯耆へ脱出します。
元弘3年(1333)5月、足利尊氏が離反して六波羅探題を滅ぼしました。それとほぼ同時期に、関東では新田義貞が挙兵して鎌倉を攻め、北条高時らを自害に追い込み、幕府は滅亡しました。
公綱は、残党をまとめ、千早城から奈良に移動し、京都の奪還を目指そうとしますが、天皇から綸旨が届き、さすがの公綱も降伏することになりました。
建武政権での重用と改名 高綱から公綱へ
建武政権が成立しましたが、公綱はその引付衆としての経験を買われ、雑訴決断所の第一番を担当することになりました。
また、加賀国司にも任じられるなど、政権内で重用されました。
そして、いつごろからかは不明ですが、このころから「高」の字を捨てて「公綱」と名乗り始めました。
南北朝動乱で揺れる立場 忠義と戦略のはざま
しかし、建武政権は天皇方と足利方に内部分裂し、崩壊への道を進みました。
公綱は、初めは天皇方につき、建武2年(1335)11月、箱根・竹下で足利・新田間で合戦が行われたときには、公綱らの宇都宮軍は、「名を重んじ、命を軽んずる」と太平記に書かれるほど活躍しました。
しかし、足利軍が新田軍を打ち破り、入京し、後醍醐天皇は比叡山へ避難したため、公綱は降伏し、足利方につきました。
その後、東北からやってきた北畠顕家軍と合戦になりましたが、足利方は敗北を重ねました。
公綱も例外ではなく、京都の神楽岡に城を構えて防衛を担当しましたが、顕家軍に敗北しました。
これにより、公綱は再び天皇方に戻り、建武3年(1336)2月~3月にかけて、新田義貞とともに足利方と合戦をしています。
足利尊氏は九州において勢力を取り戻し、再上洛します。そしてついに10月、後醍醐天皇は降伏し京へ戻りました。公綱もこれに従い、京へ戻り、出家したと伝わります。
監視の目がないのにもかかわらず、特に公綱は何も行動を起こすこともなく、批判の狂歌が門前に書かれたと伝わります。
「山がらが さのみもどりを うつのみや 都に入りて 出でもやらぬは(山雀がとんぼ返りをするように、宇都宮は都に入って出て行けぬとは)。」
南朝に参加
延元元年(1336)12月、後醍醐天皇が吉野へ逃れ、南朝を成立させると、延元2年に公綱も500騎を引き連れ、南朝に参加します。
後醍醐天皇はこれを喜び、四位少将に任じました。
そして、東北にいた顕家が再度上洛してきたとき、「逃げ若」で描かれているようにそれに従って合戦に参加したと考えられます。
氏綱への当主交代と隠居生活
しかし、その間に宇都宮家も内部分裂し、関東にいた重臣の芳賀禅可は、子息加賀寿丸(氏綱)を当主として立て、足利方に従おうとします。
それにより、公綱の立場も曖昧なものとなり、史料上であまり活動が見られなくなります。
再び姿を表すのは、貞和3年(1347)で、このころ吉野から本国である下野に下向したようです。
その後は、寺への薬師如来像の寄進など、微小な活動しか見せず、もはや半ば隠居状態と言える状態で、実質的に宇都宮家当主は、氏綱に代替わりしていたようです。
延文元年(1356)、55歳でその激動の生涯を終えたのでした。
楠木正成との戦い:坂東一の弓取りの真骨頂
公綱は楠木正成に「坂東一の弓矢取」と評されました。そのエピソードを、太平記 巻6を読み解きながら、詳しく経緯を解説していきます。
「命を軽くせん事存候き」:公綱の覚悟
元弘2年(1332)4月、楠木正成が再び挙兵し、六波羅探題は討伐軍を差し向けましたが敗れました。そこで、呼び寄せられたのが宇都宮公綱でした。
公綱は「関東を罷り立ち候ひし始より、加様の御大事に臨んで命を軽くせん事を存候ひき。今の時分、必ずしも戦ひの勝負を見る所にては候はねば、一人にて候共、先罷り向て合戦難儀に候はば、重ねて御勢をこそ申し候はめ(関東を出発したそのはじめから、このような大事にあって命を捨てる覚悟は持っておりました。今このときは、必ずしも合戦での勝敗を見せ場とは考えておりませんので、たとえ一人であっても、まず出向いて一戦を交え、もし手こずるようであれば、改めて援軍をお願い申し上げましょう。)」と言って出発していきました。
東寺の辺りまでは、主従14騎の小勢でしたが、これを聞いた手下の兵たちが洛中から集まって、500騎となりました。そして陣を敷きました。その志は、だれもが生きて帰ろうと思っていませんでした。
「其の儀分を量るに坂東一の弓矢取」:楠木正成の高評価
このことを、楠木正成の部下の和田孫三郎が聞いて、奇襲を進言しました。
それに対して、楠木正成はこう答えました。
「先ず思うて見るに、先度の合戦に大勢打負て引退く処に、宇都宮一人小勢にて相向ふ志、一人も生て帰らんとは思ひ候はじ。其の儀分を量るに、宇都宮はすでに坂東一の弓矢取也。紀清両党の兵、元来戦場に臨んで命を思う事塵芥よりも尚軽し。其勢七百余騎志を一つにして戦を決せば、当手の兵縦い退く志なく共、大半は必ず討たれるべし。天下の事、全くこの一戦に依らず。行く末はるばるの合戦に多からぬ味方を初度の軍に討たれなば、後日の戦いに誰か力を合わせん(まず考えてみるに、前回の合戦で大軍を打ち破り退却したそのあとに、宇都宮がただ一人、わずかな軍勢でこちらに向かってくるという意志は、彼らの誰一人として、生きて帰ろうなどとは思っていないに違いない。その覚悟のほどを推し量るに、宇都宮はすでに坂東一の弓矢の達人である。紀伊・清和の両党の兵たちは、もともと戦場に臨んでは、命を捨てることを、ちりやごみよりも軽く考える者たちである。そのような兵七百余騎が心を一つにして決戦を挑んできたならば、たとえこちらの兵が退く気持ちをまったく持っていなかったとしても、その多くは必ず討たれてしまうであろう。天下の大勢は、なにもこの一戦だけで決まるわけではない。これから先、まだまだ続く長い戦いの中で、味方の貴重な戦力がこの初戦で討ち死にしてしまえば、のちの戦いで一体誰が力を合わせることができようか。)」
ここが、「坂東一ノ弓矢取」と評された、ということの出典です。
わずかな手勢で向かってくる、その公綱の勇猛さに楠木正成は称賛を示したのです。
まとめ
・宇都宮公綱は『逃げ上手の若君』でコミカルなおじいちゃんとして登場するが、元弘の乱で活躍した勇猛な名将。
・下野の有力豪族・宇都宮氏に生まれ、父は鎌倉幕府の引付衆。母は北条長時の娘とされる。
・初名「高綱」は北条高時から一字拝領。元弘の乱では楠木正成に「坂東一の弓矢取り」と称され、天王寺や千早城の戦いで幕府軍として奮戦。
・建武政権では雑訴決断所や加賀国司に任じられ重用されたが、政権分裂で天皇方・足利方を経て南朝に参加。
・晩年は宇都宮家当主が氏綱に交代、隠居生活を送り、延文元年(1356)に55歳で死去。
・太平記では、楠木正成が公綱の覚悟を高く評価し、勇猛さを「坂東一」と称賛したエピソードが記される。
参考文献・付記
兵藤裕己 校注『太平記 一』岩波書店、2014年
亀田俊和 生駒孝臣(編)『南北朝武将列伝 南朝編』戎光祥出版、2021年

