平賀源内の人生5【大河ドラマ「べらぼう」】

大河

はじめに

「べらぼう」第11回では、は、エレキテルの修理をしていた源内先生が出ましたね。
さて、そんな源内先生を追う連載は5回目です。

「大山師」になった源内

鉄鉱山開発にいそしむ

安永2年(1773)1月、長崎遊学で鉱山開発に自信をつけた源内は、またしても鉱山開発に取り組むことになります。
場所は同じく秩父中津川で、今度は鉄鉱山、鉄製錬の事業をやることになりました。
後援者は代わり、岩田三郎兵衛になりました。
6月に手続きや普請などが終わって、開業にこぎつけましたが、かねてから秋田藩より鉱山開発の依頼があり、秋田へと旅立つことになりました。

秋田行き

7月初め、まずは院内鉱山の検分に行きました。
そして、角館に向かいます。
また、8月に、阿仁鉱山を検分しました。
そして、9月には比内地方で、亜鉛鉱山かと思われる山地を見つけましたが、結局、それはマンガン鉱山の間違いで、無駄足に終わりました。
このようにあまり成果は得られなかった秋田行きでしたが、久保田藩からは無事に報奨金100両をもらいました。

再び秩父へ

これを元手にしたのかわかりませんが、秩父中津川に戻った源内は鉄鉱山、鉄製錬に精を出し、一定の成功を収めたようです。
しかし安永3年(1774)ごろ、製錬がうまくいかなくなってしまったようです。「べらぼう」の劇中で描かれたような経緯かどうかわかりません。
少なくとも、製鉄業から炭焼きに業態変換したことは史実通りでず。
ただし、安永6年(1777)ごろにはこの事業も頓挫しました。

エレキテル復元

こうして、ビジネスはことごとく失敗した源内ですが、安永5年(1776)11月、エレキテルの復元、という代表的な成果を成し遂げます。
改めてエレキテルという機械について説明しますと、
摩擦を利用して、静電気を発生させるという機械です。
しかし、いつこの機械を入手したのか、どうやって復元したのかなど、分かっていないことが多いです。
源内はこれをもとに見世物としてお金を稼いでいました。新しい家を普請するくらいにはなったようです。
ですが、弟子の弥七が、源内の名をかたって資金を集め、模造品をつくるという事件が起きました。さすがに源内としても見かねておけず、このことを安永7年(1778)に幕府に訴え、弥七は捕まり、獄死しました。
なお、そもそも、源内自身は電気の仕組み自体を理解したわけではなかったことは付け加えておきます。
電気学の学術的研究は、橋本宗吉から始まったと言って良いでしょう。

まとめ

・安永2年(1773)、秩父中津川で鉄鉱山・鉄製錬を開始するが、秋田藩の依頼で秋田へ向かう。院内・阿仁鉱山を検分するも成果は乏しかった。しかし、久保田藩から100両の報奨金を得て、源内の財政は安定した。
・秩父に戻り製鉄業を続けるが、安永3年(1774)ごろ失敗し、炭焼き業に転換。しかし、安永6年(1777)ごろには炭焼き業も頓挫。
・安永5年(1776)11月、静電気発生装置エレキテルを復元し、見世物として成功。だが安永7年(1778)、弟子の弥七が模造品をつくり、源内が幕府に訴え弥七は獄死。
なお、源内自身は電気を理解しておらず、本格的な電気学研究は橋本宗吉が始めた。

参考文献・付記

城福勇『平賀源内』吉川弘文館、
2021年、初出1971年
土井康弘『本草学者 平賀源内』講談社、2008年

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