日光社参とは何か【大河「べらぼう」】

大河

はじめに

「べらぼう」11話で日光社参出立の話が出てきましたね。まさかの俄のヒントになるとは。思いも寄らないことでした。
さて、日光社参とは何だったのか?
それは、江戸時代の将軍が下野国日光東照宮に参拝する行事で、単なる宗教的な参拝ではなく、政治的な意味も持つ壮大なイベントでした。では、具体的にどのような行事だったのか、詳しく見ていきましょう。

日光社参とは?

概要

日光社参とは、徳川将軍が初代将軍家康の祀られている日光の東照宮、および大猷院(家光霊廟)を詣でる行事です。
広義には、隠居した大御所の参詣も含めます。
日光社参を実施したのは、秀忠、家光、家綱、吉宗、家治、家慶です。
全17回行われ、特に、家康を篤く思慕した家光が9回と、最多となっています。
途中、綱吉から家継、家斉のときに行われなかったのは、財政難や災害の発生が原因であると考えられています。
家康の祥月命日(故人が亡くなった月と日と同じタイミングの日)に合わせて行われることが多いです。すなわち、4月17日にあわせ実施されることが多いです。

ルート

基本的に日光御成街道、そして日光道中を通って行きます。
具体的には、岩淵(東京都北区)・川口・鳩ヶ谷・大門(埼玉県さいたま市緑区)と来て、岩槻城に一泊。以降、日光道中に入り、古河城・宇都宮城に順番に泊まり、日光に至る、というルートです。
だいたい、1日平均37kmを移動することになります。

どれほど壮大だった?—15万人が動いた社参

総勢15万人の行列

例えば、天保の家慶の社参時は、将軍が引き連れる総人数は約2万人、全体の総人数は約
14万~15万人が供奉したようです。
これは相当に規模を控えてのものだったので、これ以前は、もう少し多かったようです。
参勤交代は最大で2000人くらいですから(加賀藩)、壮大さが伺えます。
旗本や幕臣たちは、行列において召し連れる人数について、役職ごとに決められており、足りない人は、臨時に人を雇って参加しました。

どれくらいのお金がかかったか

少なくとも安永5年(1776)、家治の社参については、総額いくらぐらいがかかったかということがわかります。その費用は、22万両だったそうです。
なお、これは現代の価値に換算すると(コメを基準として考えると)、165億円くらいです。
当時の幕府の年貢収入は150万両くらいですから、それの七分の一にあたります。
「べらぼう」で田沼意次がやらない方が良いと渋っていたのも頷けることです。

日光社参が持つ政治的な意味

政局運営

社参は、もちろん、民衆へ将軍権威を誇示するためというのが第一にあります。
しかし、それは目的の一部であり、当時の政治的問題の解決のために、幕府は社参を利用しました。
例えば、吉宗は断絶していた社参を復活させましたが、それは御三家出身である自身と家康とのつながりを知らしめるとともに、自身の手掛けた享保の改革により建て直されつつある幕府を誇示するという側面がありました。

庶民がどう受け止めたのか

農民たちは人馬の供出など、多大な負担がありました。
しかし、当時の古文書などを見ますと、これを「国恩」への御礼だと捉えており、東照宮信仰の浸透ぶりが伺えます。

徳川家治の時代はどうだったのか?

最後に「べらぼう」に出てくると思われます、家治の日光社参について触れたいと思います。
明和6年(1769)、家治は吉宗の例に習い近年行うとし、社参が計画されました。
その後、息子の家基が正室の喪に服している、との理由で延期され、実行されたのは安永5年(1776)4月13日からでした。
なお、家治は「一代のうちに祖廟へ一度も拝謁しないで、どうして天下の人民を教え諭すときに孝悌の道を以てすることができようか(いやできない)」と言ったと伝わっており、「べらぼう」の描写とは少し異なり、元々社参の実行に強い意思を持っていたことが伺えます。

まとめ

  • 日光社参は徳川将軍が日光東照宮などを参拝する行事で、全17回実施され、主に4月17日に行われた。
  • 約15万人が動員され、費用は22万両(現代の165億円)ほどだった。
  • 日光社参は将軍権威の誇示や政治的課題解決の手段となり、庶民も奉仕は「国恩」への御礼として受け止めた。
  • 家治は社参を積極的に望み、明和6年(1769)に計画し、安永5年(1776)4月13日から実施した。

参考文献・付記

德川記念財団・東京都江戸東京博物館編『日光東照宮と将軍社参』德川記念財団、2011年
大石学「日光社参の歴史的位置─国家的権威の創出と伝統化─」栃木県歴史文化研究会編『日本史の中の栃木』随想舎、2013年

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