はじめに
その一の続編です。
今回は、郡奉行について、北条氏残党への対処、足利尊氏の離反と第一次畿内遠征などについて触れていきます。
郡奉行所による在地支配
陸奥各地を治めるための機構も整備されました。
それが郡奉行所です。
郡奉行所は、奉行と検断という2つの役職がありました。
奉行のほうがトップです。平たく言えば、市長のような存在です。
検断は軍事警察権を持つ、警察署長兼師団長のような存在で、奉行を補佐するものでした。これは、旧幕府方の抵抗が続く事態に対処するためのものでした。
奉行、検断は現地の有力武士、例えば、相馬氏や結城氏、武石氏などが努めました。
複数の郡を兼任することもありました。
郡奉行所は、国府の出先機関としても機能しました。例えば国府が行う土地の領有の保証は、郡奉行所を通じて行わせ、国府に直接訴えるのを禁じました。
旧北条氏残党に手を焼く
このように、着々と支配体制を整備し、陸奥守としてスタートした顕家でしたが、実質的には陸奥の南部を抑えていたにすぎませんでした。まだ北部は旧
北条氏残党も多く、元弘3年(1333)12月には、北条得宗家の家臣だった曽我氏、工藤氏らが名越時如を担ぎ、大規模な反乱を起こしました。これらの反乱軍は、大光寺城(現在の青森県平川市にあり)や石川楯(現在の青森県弘前市にあり)、持寄城(同)などに立てこもり、頑強に抵抗を続けました。
最終的には顕家側も総力戦状態となり、伊賀氏、大河戸氏など遠く離れた陸奥南部の武士たちも動員される、建武元年(1334)8月から9月にかけて義良親王、顕家が直々に出陣することも検討される事態となりました。
最終的に、建武元年(1334)11月になって持寄城が陥落し、反乱軍は降伏したのでした。
第一次畿内遠征
建武2年(1335)7月、中先代の乱が起きました。翌月、足利尊氏によってこれは鎮圧されました。しかし、尊氏は鎌倉から上洛せず、結果的に建武政権と対立関係となり、建武2年(1335)11月に新田義貞を大将とする討伐軍が送られました。
この一連の出来事は、東北の武士たちを動揺させ、足利方につき、国府と戦おうとする武士も現れました。
この情勢を受けて、顕家は11月に鎮守府将軍に任命されています。
これは、建武政権側から離反する武士たちへの顕家の求心力を高めるためでしょう。
12月11日、新田軍と尊氏軍は、箱根・竹ノ下合戦を行い、新田軍を破って、足利軍は京に向けて進軍しました。
この危機的状況を受けて、顕家と東北の武士たちに対して、上洛を命じました。
それを受け、顕家らは12月22日、義良親王を奉じ、国府を出発しました。
建武3年(1336)正月13日、近江国愛知河宿(現在の滋賀県愛荘町、恵智川宿とも)に到着しました。
国府から愛知河宿まで大体800kmくらい離れていますから、1日40kmという驚異のスピードで移動したことになります。
その後、27日に京に入り、足利軍と激突しました。
3日間、合戦は続きましたが、足利軍が次第に不利となり、丹波国に撤退していきました。
そして、顕家は新田義貞と合流し、2月11日、摂津国豊島河原(現在の大阪府箕面市・池田市)で再び足利軍を破って、西へ敗走させることに成功したのです。
参考文献
遠藤巌「建武政権下の陸奥国府に関する一考察」(豊田武教授還暦記念会編『日本古代・中世史の地方的展開』吉川弘文館、 1973年
森茂暁「南朝局地勢力の一形態 北畠氏の奥州経営をめぐって」『日本歴史』327号 1975年
遠藤巌「南北朝内乱の中で」『中世奥羽の世界』東京大学出版会、1978年
白根靖大編『東北の中世史三 室町幕府と東北の国人』吉川弘文館、 2015年
亀田俊和「北畠顕家」亀田俊和・生駒孝臣編『南北朝武将列伝 南朝編』戎光祥出版、
2021年
七海雅人「北畠顕家の軌跡」『東北学院大学論集 歴史と文化』65・66合併、2022年


