乱暴者だった?藤原道兼の息子・孫のエピソード【光る君へ】

大河

はじめに

藤原道兼が『光る君へ』18話であっさり死んでしまいましたね。
(史実なのでしょうがないのですが)
せっかく覚醒してきたのに悲しい最期でした。
今回はその道兼の子や孫たちについて、面白いエピソードがあるので紹介したいと思います。

藤原兼隆

まず、藤原兼隆の簡単なプロフィールを記しておきましょう。
藤原道兼の次男で、道長の側近として活躍した人物です。
さて、彼はかなりの乱暴者だったようで、以下の2つのエピソードが伝わっております。

自家の厩舎人を殴り殺す

事件が起きたのは、長和2年(1013)8月のある日の夜更け。
兼隆は、厩舎人という自家の馬の世話をする従者を配下に命じて、殴り殺させてしまったのです。
この件に関する記録は少なく、殺害の動機は不明です。兼隆も当時29歳、参議兼右近衛中将の要職にある今で言う社会人で、若気の至りというわけではなさそうです。厩舎人は外出の際に主人の馬の口取りをするなど、比較的に密接な関係にあったので、なんらかの人間関係のトラブルがあったのかもしれません。

藤原実資家の下女の家を破壊

長和3年(1014)正月、実資に仕えていた下女の家が、兼隆の従者に破壊されるという事件がおきました。
これは、兼隆家の下女とこの実資家の下女が井戸の水の使用を巡って口論になり、殴られたり衣服を奪われたりしたことが発端のようです。
また、兼隆自身は、この実資家の下女が自分の土地に勝手に住み着いていると勘違いしており、それを懲罰する意味もあったようです。
しかし、実資と事実確認の手紙をやり取りするうちに、その土地は実資のものであり、兼隆は勘違いしていたことに気づきました。
そして、実資に陳謝し、実資家の下女の損害を補償することで事件は落ち着いたのでした。

藤原兼房

兼隆もたいがいでしたが、息子の兼房も相当な乱暴者だったようです。
以下の2つの暴行事件を起こしています。

宮中で蔵人頭を追いかけ回す

事件が起きたのは寛仁2年(1018)4月1日のことです。
その日は、貴族たちが集まって宮中で宴会を行っていました。
その最中、きっかけは不明ですが、突然兼房が蔵人頭藤原定頼を罵り、その前においてあった食べ物を蹴り飛ばしたのです。
定頼はその場を離れ、兼房に頭の被り物を奪われそうになりながらも、控室に逃げ込みました。
それを見た兼房はなんと控室に石を投げ込みはじめました。定頼はなんとか息を殺しながら耐え、出ていくことはしませんでした。
そうしたら、兼房はあきらめたのか、そこから立ち去りました。
しかし、そこであきらめたわけではなく、殿上の間という別の部屋で定頼のことを罵りはじめたようです。
翌日、この件はさすがに問題となり、定頼は参内を禁止され謹慎処分となりました。

仏事中に少納言と取っ組み合う

治安元年(1021)12月24日、内裏で「御仏名」と呼ばれる仏事が行われていることでした。
突然、少納言源経定と兼房は口論となり、被り物を落とし合い、取っ組み合いの喧嘩になりました。
そのうち、兼房が優勢になり、一方的に経定を殴りはじめました。
それを見た経定の父源道方が、同席していた藤原能信に仲裁を頼みました。
そして藤原能信が笏で二人の肩を打ち据え、二人を引き離し、なんとかその場は収まりました。
父の兼隆も実はこの場にいたのですが、この息子たちのひどい有り様に道方とともに立つ瀬がなく、二人とも泣きながら退出したようです。

参考文献

繁田信一『殴り合う貴族たち』柏書房 2005年

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