北畠顕家の生涯 その三【逃げ上手の若君】

中世ネタ

はじめに

その二の続編です。
今回は、第一回西上から陸奥への帰還、南朝の成立、第二回西上開始までの状況について、述べていきたいと思います。

再び陸奥へ

建武3年(1336)3月2日、北畠顕家は、権中納言となりました。
その直後の10日には、義良親王が元服し、陸奥太守(親王が任じられる場合は、守ではなく太守と呼びました)となりました。
それに伴い、顕家は陸奥大介となりました。
そして落ち着くまもなく、3月下旬に、国府へ向けて出発したのです。
なお、このとき、常陸国(現在の茨城県)、下野国(現在の栃木県)も顕家たちの指揮下に入ることになりました。
しかし、帰還の行軍は、すんなりいくものではありませんでした。
当時、足利方の留守を預かる斯波家長らが関東で勢力を伸ばしていたからです。
相模国片瀬川の戦いで家長軍を破り北上します。
4月24日までに宇都宮に到着し、5月に陸奥に入った顕家らは、足利方となっていた相馬光胤の抵抗を受けましたが、これを破り、本拠小高城に攻め寄せます。
ついに、5月24日、小高城を落とし、光胤らを戦死させ、晴れ晴れと国府に帰還することとなったのです。
なお、これには諸説あり、一旦国府に帰還してから小高城を攻めたという説もあります。

霊山へ後退

陸奥では、家長の工作もあり、足利方の勢力が増していました。顕家はそれらの掃討作戦を行うことにしました。これはある程度成功を収めました。
ですが、中央では、大きな変化が起きていました。
湊川の戦いで後醍醐方が敗れ、建武3年(1336)8月に再び足利方が入京したのです。後醍醐天皇はしぶしぶ講和を結び、室町幕府ができました。
これは、東国の後醍醐方に激震を与え、次第に顕家から離反する武士も増えていき、国府付近においても合戦が起きました。
そして、12月には、常陸で後醍醐方の一大拠点として機能していた瓜連城が攻め落とされ、ますます不利となったのです。
この直後の12月21日、後醍醐天皇が吉野へ脱出しました。そこで、現在即位している光明天皇に渡した三種の神器は偽物であり、本物はこちらが持っているので、こちらこそが本当の天皇であると主張して、新たに朝廷を開いたのです。ここに南朝が成立したのです。
早速、顕家に勅書を遣わして、再び上洛するように求めたのです。
しかし、顕家の戦況は芳しく無く、翌建武4年(1337)正月8日には、国府を捨て、霊山(現在の福島県伊達市)に拠点を移動しています。霊山は800メートルを超す険しい山で、かつ山岳寺院として霊山寺があって多くの僧兵がいるということもあり、守備にうってつけの場所でしたので、それが理由でしょう。
中々、敵中の突破は難しく、25日には、この後醍醐天皇の上洛命令をやんわりと断っています。
翌2月には敵の攻撃も落ち着いてきたのか、打って出て、下野に進出しました。しかし、中々先に進めず、いったん3月には霊山に戻りました。そして、何度か足利方の攻撃を退けた後、ようやく8月11日、義良親王を奉じ、軍を率いて二度目の上洛を開始したのです。

参考文献

大島延次郎『中世武士選書22 北畠顕家―奥州を席捲した南朝の貴族将軍』戎光祥出版、
2014年、元本初出1967年
白根靖大編『東北の中世史三 室町幕府と東北の国人』吉川弘文館、 2015年
亀田俊和「北畠顕家」亀田俊和・生駒孝臣編『南北朝武将列伝 南朝編』戎光祥出版、
2021年
七海雅人「北畠顕家の軌跡」『東北学院大学論集 歴史と文化』65・66合併、2022年

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