平賀源内の人生1【大河ドラマ「べらぼう」】

大河

はじめに

いやー、大河ドラマ「べらぼう」第6回、面白かったです。
鱗形屋の旦那がやらかしちゃいましたね。まさか海賊版づくりとは。
驚き、桃の木、山椒の木です。
どうなっていくか楽しみです。

さて、今回、出演はなかったですが、劇中で狂言回しとして登場するのは平賀源内です。
平賀源内は中々濃い人生を歩んでおりますが、出回っている関連本が玉石混交で、
一般の方々が、手軽に史実の平賀源内を知るのが難しいと感じています。
それゆえ、何回かに分けて、平賀源内に関する解説記事を書いていきます。

源内の生まれ

平賀源内は、讃岐国志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で生まれました。
享保13年(1728)のことです。
幼名は、四方吉、伝次郎、後に嘉次郎とも名乗りました。
次郎とあるように、源内には兄がいたようです。ただし、いつかは不明ですが、早逝したようです。

父は、白石茂左衛門国久といい、志度浦にて高松藩の蔵番を務める足軽階級の武士でした。
農業も行い、それなりに裕福な家だったようで、白石家は、村役人層と縁組も行っております。

幼少期

13歳のころには本草学を、三好喜左衛門から学び、また、年齢は不明ながら少年期に、儒学を高松藩の儒学者菊池黄山に習うなど、勉学に励む少年期を過ごしました。
また、文芸にも明るい文学少年だったようです。
後年の本人の手紙によれば、幼いころは、太平記や三楠実録(軍記物語)を昼夜読んだそうです。
他に、俳諧も嗜んでいたようです。源内は、地元の渡辺不遠・桃源のグループで活動し、18歳のころに、『つくしごと』という俳書に句を載せています。

父の死去 平賀改姓

寛延2年(1749)、父が死去します。
それに伴い、源内も跡をついで、蔵番となりました。
この際、源内は、自分の家は武田家臣である平賀氏の子孫であるので(本当かどうかは怪しいですが)平賀に復姓としたいと藩に訴えました。こうして、「白石」源内から「平賀」源内となったのです。

長崎遊学

宝暦2年(1752)ごろ、長崎へ遊学に出かけます。
遊学は、医師久保桑閑に連れて行ってもらったという説、高松藩主松平頼恭の命により行ったという説などありますが、史料が少なく詳しいことはわかっていません。それゆえ、このときの源内の行動もよくは分かりませんが、本草学などについて、オランダの書物などをもとに、知見を深めて来たのでしょう。
なお、帰りに鞆の浦(広島県福山市)に立ち寄った際、焼き物用の土を発見し、現地の鍛冶屋の溝川某にこれを使って焼き物を焼くように、そして地神・荒神・源内神(自分)を三宝荒神としてまつるようにとアドバイスしたとのエピソードが伝わっています。

蔵番を辞め江戸へ

このことがきっかけとなったのかは分かりませんが、宝暦4(1754)年7月には、「病身である」と称して蔵番退役願いを藩に出しました。8月には許可され、浪人となったのです。
そして、平賀家の家督は、妹に従兄弟を結婚させ、婿養子として継がせました。
晴れて自由の身となった源内は、まずは大坂で医師戸田旭山の弟子になります。
弟子入りの経緯は分かりませんが、この旭山は、上方の著名人であり(奇人として知られていたのです)、かつ本草学に詳しい医師であった、そこら辺が関係しているのかもしれません。
しかし、源内はあくまで江戸での成功を求めていたようで、宝暦6年(1756)には江戸に行きます。
本草学者田村藍水の門下になりました。
田村藍水は、医者で、朝鮮人参や石薬に詳しく、かなりの実績のある本草学者でした。
この藍水に教わる傍ら、林家の塾にも通い、湯島聖堂にも入門したようです。
これは、本草学は中国伝来の学問であるため、漢文の読解能力が必要だったからだと考えられます。
しかし、源内はあまり漢文が得意ではなかったようで、同時代の儒学者・柴野栗山から「学術は無き人なり」と酷評されています。

まとめ

源内は、高松藩の蔵番の子として生まれ、幼い頃から本草学・文芸などの勉学に励みました。
寛延2年(1749)、父が死去し、跡を継ぎましたが、長崎遊学を経て、蔵番退役願いを出し、浪人となりました。
そして、大坂での修行を経て、宝暦6年(1756)、江戸に出府し、田村藍水門下として本草学者の道を本格的に歩み始めたのです。

参考文献

城福勇『平賀源内』吉川弘文館、
2021年、初出1971年
土井康弘『本草学者 平賀源内』講談社、2008年

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