はじめに
その三の続編です。
今回は、第二回西上から美濃青野ヶ原合戦までの顕家の足跡を述べていきたいと思います。
関東の北朝軍を破る
顕家の軍はともかく進軍が早いことが知られていますが、今回の西上では、最初はゆっくりでした。
建武4年(1337)8月に陸奥を出発してから、中々北関東を抜けずじまいだったのです。
武蔵に入ったのは、11月下旬でした。
そして、12月13日に、利根川あたりで北朝方の上杉憲顕、高重茂らの鎌倉を守っていた軍と激突しました。
中々川の水かさが多く、膠着状態が続きました。
顕家に仕えていた長井実永ら(平家物語で活躍した斎藤実盛の子孫)が、勇敢に先陣を切って渡っていきましたが、水に沈んでしまいました。
これを見て奮いたった顕家軍は、川を一度にまっすぐ渡りました。それを見た北朝軍も川を渡りましたが、顕家軍に水の流れをせき止められた状態であり、かつ流れが早い場所であったため、筏が流されてしまい、敗北したと伝えられています(『太平記』)
その後、武蔵国府に至り、様子を伺います。
なお、ここで北条時行と新田義興が味方として参戦したようです。
12月23日から鎌倉に攻め込み、25日に北朝軍の大将・斯波家長が籠もっていた杉本城を落とし、彼を死に追い込むことに成功しました。
それらから息をつくまもなく、建武5年(1338)正月2日、鎌倉を出発し、東海地方へ向かったのでした。
美濃・青野ヶ原での合戦
顕家は、正月22日には、尾張黒田宿に入りました。
そして、24日には、美濃の足近川を渡るところまでは来ました。
しかし、北朝軍も黙って畿内に入れさせるわけもなく、関東で態勢を立て直した上杉憲顕、高重茂らが、また今川範国、土岐頼遠らの軍が、顕家軍に四方八方から迫ってきていました。
そして、28日に、美濃青野ヶ原でついに幕府軍と対峙することになり、大規模な合戦が起きます。
北朝軍は、太平記の表現によれば、兵数は「八万余騎」で、くじで軍を5手にわけて(3手説も)、順番に顕家らに襲いかかりました。
最初に顕家が接敵したのは、小笠原貞宗らの軍です。
伊達氏などの軍の活躍もあり、北朝方の軍の多数が討ち取られ、撃退することができました。
二番目に接敵したのは、高重茂です。
これについては、北条高時らの軍と合戦になりましたが、結果的に高時らの軍が300人を討ち取り、勝利しました。
三番目に接敵したのは、今川範国らです。
これについては、あまり詳細がわかりませんが、激戦になり、結果的に南部・下山・結城連合軍が敗北に追い込んだようです。
四番目に接敵したのは、上杉憲顕らの軍です。これには、新田義興、宇都宮氏の軍があたりました。お互いに一歩も退かないという状況でしたが、北朝方が最終的に敗れ、落ち延びていきました。
五番目に接敵したのは、土岐頼遠、桃井直常の軍です。
ここには、顕家自ら軍を指揮してあたりました。
北朝軍が陣中に突撃をしかけてきて、激しい切り合いになりましたが、最終的に北朝軍の多数が討ち取られ、頼遠も顔に重傷を負ってしまい、退却していきました。
こうして、顕家ら南朝軍の勝利に終わったのです。
しかし、顕家はそのまま進軍することなく、伊勢方面に移動しました。
これについては、次回述べたいと思います。
参考文献
大島延次郎『中世武士選書22 北畠顕家―奥州を席捲した南朝の貴族将軍』戎光祥出版、
2014年、元本初出1967年
白根靖大編『東北の中世史三 室町幕府と東北の国人』吉川弘文館、 2015年
亀田俊和「北畠顕家」亀田俊和・生駒孝臣編『南北朝武将列伝 南朝編』戎光祥出版、
2021年
七海雅人「北畠顕家の軌跡」『東北学院大学論集 歴史と文化』65・66合併、2022年


